tayutayu

日誌

拝啓、だれもいない海

こんにちは。
消しかけたはてブロを復活させました。

最後に日記を書いたのは年末だったでしょうか。
そのころはちょうど電車通勤が難しくなり、なにもかもに対して身動きが取れなくなっていたころ。
あれからしばらくして、限界パートタイマー(電車乗れない目会社たどりつけない科)だったわたしは時差出勤を許してもらえることになり、かわりに業務委託へ契約を切り替え、働きやすい環境を整えてもらえることになりました。
不調の強い時間帯の出勤を避けられ、パート契約のときよりも週の稼働日に自由がきく環境でなら、こんどこそはつぶれずに頑張れるかもしれない。
上司との面談の日には離職を覚悟して臨みましたが、提案してくださった会社のご厚意に、ありがたく甘えることにしました。

有給消化のためそのままひと月ほど休み、フリーランス(限界)として復帰したのが一月の終わり。
それからひと月ほどたったわけだけれど、現在のわたしは職を離れる準備をしています。ひとまず契約を今期で最後にしてもらえるよう丁重にお願いをして、ハローワークで手続きをし、その後の生活のための調べものに忙しくしているところ。
気圧やくすりの調整の影響で、相変わらずしにかけ生きかけの毎日ではありますが、まえよりはずっとたくましく、うえをむいてやっているように思えます。

海に行けるのはいつになるだろう。
あまり日のつよくならないうちに行けることを願って。

敬具

t.A.T.u.をまっていたわたしがチバユウスケに生かされたはなし

午後、彼の訃報を知る。

かなしいだとかせつないだとか、メディアで流れてくる過去形のことばがまだぴんとこない。
信じられないということばすら生まれてこないくらい、まだ彼の死を理解できていない。ただひとつ、なにもいいたくないのだけはわかった。
いまはただ黙っていたい。なにかしらリアルなものが感じられるまでは。

そんなふうにいつも通り時間をやり過ごして、やっぱりなにかはっきりした感情みたいなものは見当たらないんだけれども、覚えておきたいことというのはたしかにあり、ふくふくと浮かんでくるのでここに書きとめておきたい、せっかくだからよお。

今日はちょっとマニアックな長話になります。

 

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17歳のカルテ

高校三年生のころ、はじめて受診した病院に電話をかける。もう十年以上前のことなので半分あきらめていたのだけど、そのときのカルテはまだ残されていて、証明書の発行も可能との返事をもらった。

初診の日の朝のことはよく覚えている。
クリニックまでは、通学するときと同じ電車に乗ってむかっていた。いつもと変わらない満員電車のなか、前の席が一つ空いたので母に座るように促す。学校の少し先の駅までの数十分、手すりにぶらさがりつつ、向かいに座る母がときどきはんかちで鼻を拭うのを泣いているんじゃないかとはらはらしながら(たぶんただのくせ)、これから起きるまったく読めない時間を想像したり、していなかったりした。
このとき耳元でかかっていたレディオヘッドのアルバムはいまでもとても好きだけれど、この朝のことを思い出してしまうのでめったに聴かれない。

放心したまま窓の外を流れていくいつもと同じ景色を眺め、ときどき母の表情をぬすみみては、子どもが精神科にかかるのってどんな気もちなんだろうとか(彼女もかつては患者だったのだが)、はてしなく絶望的な、途方にくれるような気もちになっていたのをよく覚えている。
家ではもっと絶望的な毎日がくり広げられていたこともわすれて。

病院は母が以前お世話になったクリニックだった。
主治医も同じで、まったくかざらず、穏やかな口調で話す女性で、世の中にこんなやわらかい時間があるのかとびっくりさせられた。
たとえると、部屋自体はとても簡素な空間なのに彼女との面談中はいちめんジェラピケ、よぎぼー、はんぺん?魚河岸あげ?、そのような感じ。
深く座ったら起き上がれなくなりそうな怖ささえあった。そのころのわたしはあまりにも絶望しすぎていたし、そんなやわらかい空間に身を置く経験もなかったし、いまよりもずっとなにもしらなかった。半年くらい通ったけれど最後まで寄りかかりかたはわからなかった気がする。
いろいろ話をして、薬を飲むのはまだ怖い、ということで漢方を処方してもらいつぎの予約をとった。

近くの薬局で薬を受け取ったわたしたちは緊張から放たれてすっかり気が抜けてしまい、せっかく平日の朝早く都心に出てこのまま帰るのももったいないねとそのまま上野に移動した。母とふたりで何年かぶりに動物園を歩いた。
学校を休んで歩く冬の動物園はかくべつ。平日の真昼間だったので園内はすかすかで、だけど空気は透明で、光がやさしく動物たちの輪郭を照らす。
たえまない象の声に震え(感動)、爬虫類館の鰐に震え(最高)、何度も訪れているはずの場所だけれど、その日がいちばん印象的だった。鬱屈とした日々のなかに突如あらわれたエアポケットのような時間。
なにかをさぼった記憶のなかでいちばんたのしかった思い出で、これを超えることはきっとないだろうと思う。(もうさぼるな)

 

17歳のわたしの絶望はいま考えるとおさなくて、だけど切実だった。
あのやさしい診察室に同室して話をきいてあげたところで、救ってあげられることなんて一つもない。いまだって解決していることなんかごくわずかで、解決というよりは、問題も不安も絶望も、たえずもちつづけられる体力を養ってきたというほうがただしい。それは彼女のたすけにはならないかもしれないけれど、その彼女、あのときみていたよりもずっとやさしい世界に生きていますよ。レディオヘッドもずっと好き。だから大丈夫。がんば。

わたし、ケースワーカーとはなす

通院日。医師の診察後、急な展開ではじめてケースワーカーと話す。

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これまでのことや現在の困りごと、住まいについて考えていることなどをぼろぼろと伝えたら、たすけになるかもしれない現実的な手立てをひとつひとつ紹介してもらえた。そういう時間を与えてもらえただけでもかなり心づよかった。

これ以上はどうしようもないんだろうな、と思い込んでいたことが案外どうしようもなくなかったりして、社会にはまだはなしに行ける場所がたくさんあるんだよねと思いながら帰ってきた。

帰宅後、友人に小包を出しにポストへ。
レターパックヴェイユの工場日記とコンビニ人間、むらさきのスカートの女をぎゅうぎゅうにつめて送った。芥川賞率がたかいのはまぐれです、読んでも読まなくてもいいと手紙を添えた。

その友人とは、年に何度か贈りものを気まぐれにやりとりする。
お中元、とか、お歳暮、とか、なにかしらの理由をつけてすてきなものやふしぎな食べものなどを贈りあう。提案してくれたのは友人からだった。ふたりとも連絡不精だし、波のり人生だし、せめてもの生存確認ということらしい。日々にたのしみを取りつけるためにもということで、細々と続けられているわたしたちの風習。

12月の夕暮れはいい。空気が透明で、感覚がとおくまでひらく。
ほてった頬がつめたい風に冷やされ、じんわりと脈を感じる。
ここまでくれば大丈夫、という気もちになる。

病院での会話でいろいろ進展があったのでしばらくはあたまのなかがせわしなくなりそう。明日はさっそく役所ごとだな。

通勤部屋を探す、メモ

すぐには動かないとわかりながらも、つい住宅情報サイトをひらくと部屋探しがとまらずこんな時間。
といっても、条件がかなり限られているので、もしかするともしかしたらいいな、くらいの気もちにその6倍くらいの期待を込めていくつものページを転々とする。
もちろんそんなに都合のいい空き部屋なんて転がってはいない。


部屋探しにおいて、ゆずれないポイントを3つ。

ゆずれないポイントその1、日当たりがいいこと
すこやかな生活のためにどうしてもこれだけはゆずれない。電気の明かりがにがてなので、できれば昼間は照明がいらないくらいの明るさがほしい。

ゆずれないポイントその2、がんばらなくても払える家賃
予算を上げればすてきなお部屋はごろごろと出てくるけれど、いまはまず最低限の住処探しということで2、3日働けば次の月の家賃が払える、それくらいのラインで考えている。
家賃のために泣きながら働くなんてごめんだ。

ゆずれないポイントその3、移動のしやすさ

umiushiumiuso.hatenablog.com

で書いたように、今回は通勤のために部屋を探しているようなものなので朝の通いやすさは最優先事項。できればバス一本で済む場所がよいけれど、勤務先がこれまたなかなかへんぴな場所にあるので探しづらいのなんのって…ぶつくさ会社にうらみごとをぼやきながらGoogleマップをながめていたらむだに勤務先のバス停事情に詳しくなった。

加えて、ほんとうはゆずりたくないポイントもいくつか。
角部屋、あるいは大きな窓、そう高くなくても窓からはちゃんと空がみえるといい、台所はできるだけ広く、せめて安心して野菜が切れるくらいのスペースはほしい、あと収納も広く。あとはユニットバスのバスタブがきれいなこと。それくらい。

すてきな部屋がみつかりますよーに。

リハビリ雑記 ことばについて

数年まえから、だれかにむけてことばをもつことが難しくなった。

たわいなくふざけたり、かるい世間話とか、おきまりのやりとりみたいなことは変わらずできる。
けれど、たまに会ったひとたちが共有してくれるたいせつな出来事とか、時折わたしにむけてみせてくれるやさしさとか、なにをどう思うかとか、そういう話にうまく応えられない。
とくに友人や大切なひとたちにむけて。

思うことはある。(ほんとうにひどいときはなにも思えないこともある。我もついに人でなくなったかと思った。)
友人たちはみんな、それぞれのことばでいろんなことを伝えてくれる。やさしさに触れたときにはとびあがりたいくらいうれしくなるし、お互いが大好きな映画の話は日が暮れるまで語りたい。彼女たちがさしだしてくれたように、わたしもことばを返したい。
けれど、それができない。

いざそういう場面にたつと、"いま・ここ"で共有できることばがみあたらない。
なにか思っているはずなのに、なにをいえばいいんだろう、と途方にくれる。
メールの返信を打つときもそう。しばらく考えて、ありがとう、うれしい。それはそれでシンプルでいいんだけれど、あたりさわりのないことばしか返せずに終わる。


この困り感は、お互いのことばを大切にしてきたひとたちとのやりとりだからよけいにおおきいのかもしれない。鬱が回復してきたからこそ感じている不自由でもあると思う。
ことばに限らず、不調時など気を抜くとこういうかなしみを思いだして落ち込んだり焦ったりしがち。もーどーにも、なんかいやってもしんどいものですな。

最近はとりもどす、ではなくあたらしいことばを身につけていく、のスタンスに変えちゃうのもいいなーと思いはじめている。切りかえがなによりもにがてなので、気がついたら変わってたみたいな時のながれに身を任せていくスタイルで。

もぐる生活

お題「好きなラジオ番組を教えて下さい!」

放送大学の講義です。
もぐりすぎて、いまではジングルのアコースティックギターがあたまのなかで完全再生できる。

朝の支度中や、なんだか落ち着かない、やりようがないなというときには、とりあえず身のまわりを片付けてradiko放送大学のチャンネルを再生します。
すると、ことばでいっぱいになっていたあたまがすーっと換気されて、チューニングされるような感覚になります。

 

高校くらいまでは音楽のことばかり考えていたので、ふつうに暮らしていてはなかなか出会えない洋楽や、少し昔の音楽に触れられるFMラジオがとても好きでした。
ただ大人になっていくにつれ、パーソナリティの声の調子やゲストとのやりとりを追っているとあたまがつかれるようになってしまい(聴覚のコミュニケーション能力がない)、ぱったりとラジオをきかなくなりました。
加えて、体調の悪いときはほんとうに(死ぬほど)好きな音楽であっても受け付けなくなりました。音の進行によって生まれる表現そのものが、人間の声みたいに意志をもって動かされている、そのことにたえられないような気もちになります。

そんなわけで一時期は仙人のような無音生活を送っていたのですが、たまたまひらいたradiko放送大学発達心理学の授業をやっていて、そこからもぐりこみ生活がスタートしました。

放送大学は、曜日時間ごとにさまざまな講義が放送されています。
ほとんどbgmとして流しているので内容をがっつり把握することはまずないのですが、心理学や精神医学、社会学や芸術的な学問まで、こんなの無料で聴いてていいの?!というような話が日々盛りだくさんで、余裕のある日はがっつりかじりついてもたのしい。
ふだん自分では選ばないような科目が流れてきて、意外と興味深い内容だったということもよくあります。

そして、どれも学術的なテーマなので、きほんてきにはだれかの感情が入ることはなく、語られることばの調子も淡々としています。それがとても心地よい。

毎日生活していると、自分のまわりのことばだけであたまが凝り固まってしまうようなことってありますよね。そういうときにたすけてくれるのが、やっぱりラジオです。
アットホームなラジオもいいけど今日は気分じゃない、
そんな日にはぜひ放送大学、聴講してみてはどうでしょう、、?

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